何を知っているかによって見える景色は変わる
昨年は東京五輪、今年は北京で冬季五輪が開催されます。普段はあまり目にしない競技や初めて見る競技なども多く、4年に一度という事も有って一層楽しみです。このスポーツ観戦をする時にルールや出場選手の人となり等の知識を持っていると見方も大きく異なってくるのではないでしょうか?
日本とトルコの関係
8700kmの距離と95年の歳月超えた絆
1890年(明治23年)9月16日、オスマン帝国最初の親善訪日使節団を乗せた軍艦「エルトゥールル号」が和歌山県大島の串本町沖で台風による強風と高波により座礁し、沈没しました。
この事故により587名の命が奪われる大惨事となりましたが、島民による命懸けの救助活動により69名が救出されました。
あの日から95年の時が過ぎ、事件が起こったのは1985年のことでした。
当時イラクの大統領だったサダム・フセインが「48時間が経過した後、イラン上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす!」という恐ろしい宣言をしたのです。
全ての飛行機とは外国籍の旅客機も含まれることになります。
このとき、多くの国では救援機を派遣して自国民の救出に当たりました。
ところが、日本人だけがテヘラン空港に取り残されてしまいます。憲法違反を危惧した日本政府は自衛隊機での救助を出来ずにいたからです。
タイムリミットが迫るなか民間機を派遣する事も出来ず、日本人だけが置き去りにされていました。万事休す、もうだめか!
「私たちはエルトゥールル号の借りを返しただけです」
救援機がテヘラン空港に着陸しました。それはトルコ航空機です。
トルコも自国民が残っていましたが、自国民ではなく日本人の救出を優先したのです。
このとき、イラク国内に残っていたトルコ人は500名。救援機に同乗することは無理だったのです。残されたトルコ人はなんと陸路でイラクを脱出したのです。
自国民を置いて日本人を救援することは、通常であれば非難の対象になってもおかしくはありません。しかし、この行動はエルトゥールル号での恩返しといわれ、トルコ国民には非難する者などいませんでした。
後日、当時の心境に付いてインタビューに答えた女性の言葉です。「信じられなかった。なぜこんな状況で来てくれるのか、理由が分からなかった」。彼女は飛行機に乗り、国境を越えた瞬間、緊張と恐怖が解き放たれ、涙が止まらなかったそうです。
イラクの警告期限の約3時間前に離陸した1番機に日本人198人、期限1時間前の2番機に17人が搭乗して邦人215名が脱出できたのです。
人が人を想う心に国境はない。
有名な話ですからご存知の方も多いでしょう。
それでもこの話を聞いた後では、イスタンブールの景色も格別なのではないでしょうか。
同じものでも、何かを知っている事により見え方が違ってくる。人との関わりも不動産との関わりも同じことです。
毎週木曜日もお楽しみに(^^♪
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